人的資本の有価証券報告書での開示が義務化。求められる「人材戦略」とは

人的資本の有価証券報告書での開示が義務化。求められる「人材戦略」とは
皆様こんにちは。KxShareの大村です。
最近は厳しい寒さを超え、だんだんと春が近づいてきているのを肌で感じます。そして、新しい季節、新しい年度に加え「新しい制度」も着々と始まろうとしています。今回は、3月期決算から大手企業4000社で開示の義務化が始まる「人的資本」についてコラムを執筆しました。
人的資本とは何を指し、企業にどんなことが求められ、それがどう企業の価値向上に繋がるのかを、日本で人的資本への関心が高まる大きな要因となった「人材版伊藤レポート」を基盤に解説していこうと思います。
はじめに
従来、経営において“ヒト”は資源の1つとされてきました。皆さんも一度は聞いたことがある、ヒト・モノ・カネに加え情報、これら4つが主な経営資源として列挙され管理の対象とされていたのです。中でもヒトは、最も重要な資源であり、人的資源(Human Resource)として広く知られています。一方で最近では、ヒトを投資対象の資本として捉える、人的資本(Human Capital)という考え方が欧米を中心に世界で広がりを見せています。その背景には、近年の企業価値における無形資産の割合向上が存在します。
企業価値の主要な決定因子が、資産や工場設備、在庫といった有形資産から、特許やブランド、人材といった無形資産に移行しているのです。無形資産は非財務資本とも呼ばれ、財務諸表には掲出されません。無形資産が企業価値に及ぼす影響力拡大に応じて非財務資本の重要性が高まる一方で、企業価値の将来予測を財務諸表に掲出される情報のみから行うことは至難です。特にアメリカでは、企業価値における無形資産の割合が9割を超えています。
アメリカの企業価値における有形資産と無形資産の割合の推移
URL:https://www.oceantomo.com/intangible-asset-market-value-study/
無形資産においてもその根幹となるのはヒトです。言い換えれば、企業の競争力の源泉が“人材”となっているのです。そこで、(1)投資家が企業価値を判断できるようにすることと、(2)企業自体の企業価値向上を目的に、人的資本の情報開示が求められているのです。
この流れを受け、2018年には国際標準化機構(ISO)が人的資本の情報開示に特化した初の国際規格「ISO 30414」を発表しました。それに続き、2020年には米国で、米国証券取引委員会(SEC)が上場企業に対し「人的資本の情報開示」の義務化を発表するなど、世界では人的資本の情報開示が進んでいます。
日本も米国に2年程遅ればせながら、2023年3月期決算からの有価証券報告書での人的資本の開示が大手企業約4000社を対象に義務化されます。時代の潮流についていくことが出来るのか、今、日本における「人材」の捉え方のパラダイムシフトが求められています。
では、日本よりも2年程早く、人的資本開示の義務化が行われたアメリカは、有形資産と比較すると無形資産への投資がどの程度行われているのでしょう。下記表をご覧ください。
「伊藤レポート 2.0」でも示されたように、米国 S&P500 の市場価値の中で、有形資産が占める割合が年々少なくなっているとともに、1990 年代後半から米国企業における無形資産への投資額(付加価値総額に占める割合)が有形資産への投資額を上回り、その差が広がっています。一方で、日本では依然として有形資産への投資が上回っています。
先ほども述べました通り、無形資産の根幹はヒトであり人的資本です。では、これほどまでに世界で注目を集めている人的資本という考え方はどのようなものでしょうか。企業に求められる人材戦略とその開示方法を併せてみていくことにしましょう。
人的資本とは
まず、前提を理解するために、人的資本とは何か見ていきましょう。
OECD(経済協力開発機構)は、2001年の報告書にて人的資本を「個人的、社会的、経済的厚生の創出に寄与する知識、技能、能力及び属性で、個々人に備わったもの」と定義しています。
従来の人的資源は、ヒトに掛けられる費用がコストとして捉えられていたのに対し、人的資本では投資になります。単なる人材管理から、人材の成長を通じた価値創造へ、求められるマネジメントも変わってくるのです。ではなぜ人的資本への投資が求められるのでしょうか。それは結論から言って、持続的な企業価値向上のためです。人的資本投資が持続的な企業価値向上に繋がってくる理由を理解するためには、現状を整理する必要があります。
現在、国内外の機関投資家の間では、ESG(環境・社会・企業統治)投資の中でも“S”(社会)の要因が持続的な企業価値向上には不可欠であるという認識が広がりつつあります。また、VUCA[Volatility(変動性)・Uncertainty(不確実性)・Complexity(複雑性)・Ambiguity(曖昧性)]とも呼ばれる激動の社会の中で企業は、持続的な企業価値向上のために時代や顧客に合わせた変化を起こしていく必要があります。そして、その変化の速度は、AIなどのテクノロジーによって加速度的に速くなっています。これに対応するためのイノベーションを起こしていく必要があり、イノベーションを生み出すことを通じた持続的な企業価値の向上や経済成長を支える原動力はどこまでいっても最終的にはヒトなのです。このヒトにいかに投資し、成長させ、それを企業価値に繋げるか。企業には、単なる管理者としての人事ではなく、経営戦略としての人事が求められているのです。伊藤レポートで示された、求められる変化の方向性は下記表のとおりです。
人材版伊藤レポートの整理(1)
URL:https://rc.persol-group.co.jp/thinktank/column/202206100002.html
例えば、この表における「個と組織の関係性」や「雇用コミュニティ」で言えば、従来メンバーシップ型で人材の囲い込みがされていたのに対して、これからは企業と個人それぞれが選び選ばれる多様かつ対等でオープンなコミュニティが求められます。昨今よく耳にするジョブ型採用もこの変化の1つと言えるでしょう。個々人が専門性を有することで、企業での遂行業務が明確化され、たとえ他企業に行っても活躍することが出来る人材になるということです。したがって、従来の会社と個人の相互依存関係から脱却し、人材流動化とそれに伴う多様化によってイノベーションが生まれやすくなるのです。
人材戦略
ここまでの説明で、人的資本の重要性についてはご理解いただけたことと思います。では次に、人的資本を重視した経営を実践していくために必要な「人材戦略」とは何でしょうか。伊藤レポートで示されたキーワードは、“3つの視点”(Perspectives)と“5つの共通要素”(Common Factors)です。これを3P5Fモデルと呼びます。
人材版伊藤レポートの整理(2)
URL:https://rc.persol-group.co.jp/thinktank/column/202206100002.html
〇 3つの視点
まず、3つの視点とは何でしょうか。この視点は、言い換えれば人材戦略を行う上での前提であり、満たしておくべき問いとも言えるでしょう。それぞれについて見ていくと、1つ目は、①「経営戦略と人材戦略が連動しているか」です。2つ目は、②「目指すべきビジネスモデルや経営戦略と現時点での人材や人材戦略(As is – To be )との間のギャップを定量的に把握できているか」になります。そして3つ目は、③「人材戦略が実行されるプロセスの中で、組織や個人の行動変容を促し、企業文化として定着しているか」です。
まとめると、企業の理想の状態達成のためには、現状を正確かつ定量的に把握し、その差を埋めるKPIを設定していくことが必要だということです。そして、このことがステイクホルダーとの対話を深めることにも繋がっていくのです。しかしながら、理想と現状の差を埋めていくためには、人材戦略と経営戦略とが一体となって進んでいく必要があります。加えて、理想の状態を明確にし、企業文化として継続的に人材戦略を行っていくためにも、企業が今一度パーパスに立ち返り経営トップ自らがその理念やビジョンなどを企業内外に粘り強く発信していくことが求められるのです。
人材戦略において、これら3つの視点の中でもとりわけ重要なのは、1つ目の「経営戦略と人材戦略の連動」であり、達成にはCHRO(chief human resource officer)の選任が効果的であると考えられます。CHROとは、経営陣の一員として人材戦略の策定と実行を担う責任者のことであり、社員・投資家を含むステイクホルダーとの対話を主導する人材を指します。従来の日本企業における事務・管理的な人事ではなく、人事部長の枠を超えたCHROのイニシアチブのもと経営陣と連携した企業の経営戦略としての人材マネジメントが人材戦略実行の鍵を握っているのです。
〇 5つの共通要素
そして、具体的な人材戦略への取り組みを5つのカテゴリーに分類したものが5つの共通要素です。
⑴ 目指すべきビジネスモデルや経営戦略の実現に向けて、多様な個人が活躍する人材ポートフォリオを構築できているかという要素。…「動的な人材のポートフォリオ」
⑵ 個々人の多様性が、対話やイノベーション、事業のアウトプット・アウトカムにつながる環境にあるのかという要素。…「知・経験のダイバーシティ&インクルージョン」
⑶ 目指すべき将来と現実との間のスキルギャップを埋めていくという要素。…「リスキル・学び直し」
⑷ 多様な個人が主体的、意欲的に取り組めているのかという要素。…「社員のエンゲージメント」
⑸ 「時間や場所にとらわれない働き方」という要素。
企業とっては、これらの共通要素を基に、経営戦略上重要な人材アジェンダについて経営戦略とのつながりも加味したうえで、具体的な戦略・アクション・KPIを考えることが有効となるのです。
これらの共通要素の中でも、本コラムでは特に「リスキリング」に焦点を当ててみていくことにします。
人的資本投資【リスキリング】
昨今耳にするようになったリスキリングですが、これも企業が推進して行っていけば、人的資本投資の1つと言えるでしょう。経営環境の急速な変化に対応するためには、従業員のリスキルを促していく必要があります。また、従業員自身が将来を見据えて自律し、キャリアを形成することが出来るように学び直しを積極的に支援することも重要です。
したがって、CEO・CHROが連携して、経営戦略実現のために従業員に必要なスキル・専門性を特定し、リスキルを主導するとともに、従業員にとってそのスキル・専門性がどのような意義を持つか丁寧なコミュニケーションが求められるのです。また、具体的な取り組み方としては、自社に不足するスキル・専門性を有するキーパーソンを社内外で特定し登用したり、キーパーソンから周囲の人材にスキルを伝播させたりすることが挙げられます。
このようなリスキリングを通じて、個々人の能力(ケイパビリティ)を向上させることで、組織全体の能力も向上します。その結果、企業価値向上につながっていくのです。
では、実際に企業は、リスキリングにおいてどのようなサービスを用いているのでしょうか。2つ例を挙げご紹介します。1つ目は、FCEトレーニング・カンパニーが提供する「Smart Boarding」というサービスです。
Smart Boardingは、社員が自ら学び・育つようになるためのオンライン自走学習システムを提供しており、大林組やレバレジーズなど多数の会社で導入されています。
コンテンツ内容は、「プロが考えた階級×課題別研修」…新入社社員向け・マネージャー向けなど各階層でよくある課題を解決するために必要な考え方・知識・スキルを身に付けることができるものや、「育成のプロ考案のコンテンツ×貴社オリジナルコンテンツで貴社独自の研修制度の構築」…社内研修で教えていること、OJT(現場教育)で教えている事など、社内で教育している内容を貴社オリジナルの学習プログラムとしてSmart Boardingにアップすることができるものなどがあります。
2つ目にご紹介するのは、EDGE Technologyの提供する「AIジョブカレ」というサービスです。AIジョブカレ自体は個人向けの人工知能技術専門プログラミングスクールですが、EDGE Technologyは法人向け研修も行っています。
法人研修では、経験豊富なAI技術者・データサイエンティストによる研修を提供し、AI人材の育成を手掛けています。また、その研修はオンライン、動画受講、講師派遣と様々スタイルがあるのも特徴的です。さらに、研修ラインナップも「AI概論研修」、「AI技術研修」、「Python+数学」など豊富に揃えられています。
企業がリスキリングを推進していくにあたり、こういったサービスを使用していくことも効率的な一手ではないでしょうか。この章では、人的資本投資の手法をリスキリングの観点から見てきました。次の章は、ではどのようにしてこういった取り組みを開示していくのかを見ていきます。
人的資本開示例(三井物産)
人的資本開示では、統合的なストーリーをベースに「ガバナンス」、「戦略」、「リスク管理」、「指標と目標」の4つの要素に沿った開示が効果的かつ効率的と内閣官房 非財務情報可視化研究会の『人的資本可視化指針』によって述べられています。その具体的な指標や目標はそれぞれの企業に委ねられていますが、人的資本可視化指針で示されている2つの類型である、独自性と比較可能性の観点を適宜使い分けたり、併せたりして開示をすることが有用です。
独自指標を数値化する場合、定義を明確にし、定量的な値とともに開示すると良いでしょう。また、KPIの目標設定にあたって、なぜその目標設定を行ったか、企業理念や経営戦略と絡めストーリー性を提示できるとなおよいのではないでしょうか。ただし、人的資本の客観的評価が難しいことも確かです。したがって、企業各々が人的資本情報をどう測定するかも注目すべき点の1つでしょう。
そのような中でも今回は、金融庁の記述情報開示の好事例集に取り上げられた三井物産を例に、具体的な有価証券報告書での人的資本開示について見ていくことにします。
三井物産の人的資本開示
URL:https://www.fsa.go.jp/news/r4/singi/20230131/01.pdf
上記の通り、三井物産は ⑴多様性を力にする組織づくり ⑵多様な人材の活躍促進 ⑶弛まぬ「挑戦と創造」を掲げ、
①ダイバーシティ経営推進体制
②女性の活躍推進
③男性社員による育児目的休暇の取得
④海外拠点における人材の活躍
⑤多様なキャリアの提供
⑥社員エンゲージメント
これらの観点において、定量化された情報も多用しながら具体的な活動内容や推移を記載しているのです。
人的資本開示については、誰もが手探りの状態であるのは確かですが、そのような中でも企業の主体的な取り組みとステイクホルダーとの対話を深める分かりやすく、独自性のある資料が求められています。
まとめ
人材に投資し企業価値向上に繋げる。人的資本開示の義務化によって、企業に対しこれまで以上に、人的資本投資が求められます。しかしそのためには、従来の日本企業における事務・管理的な人事ではなく、人事部長の枠を超えたCHRO(chief human resource officer)のイニシアチブのもと経営陣と連携した企業の経営戦略としての人材マネジメントが必要です。相互依存の関係にあった、企業と個人の関係は、互いに自立した対等で選び選ばれる関係へ変容していきます。終身雇用という意味ではなく、正しい意味で従業員のウェルビーイングに寄与する企業こそが生き残っていける時代なのかもしれません。
そして、促されるのはメンバーシップ型雇用の崩壊とジョブ型雇用の到来。それによる人材の流動化と多様化です。企業体質が変わり、従業員の心持が変われば、従業員のエンゲージメントは上昇するでしょう。今はまだわずかであっても、中長期的に見た時、一人ひとりの仕事に対する“熱意”が大きな時代の潮流となって、衰退が危惧される日本を成長へと導いていくかもしれません。
一方で、懸念されるのは、人的資本経営が単なるブームや投資家へのパフォーマンスで終わってしまうことです。人的資本開示の義務化によって、真の意味で人材を人財と捉える人的資本経営が推し進められることが願われます。
そして、このコラムが、人的資本に興味を持つきっかけや投資家の皆さまが人的資本という世界の潮流を掴む一助となれば幸いです。
参考にしたもの
・経済産業省 「人的資本経営の実現に向けた検討会 報告書 ~人材版伊藤レポート2.0~」 令和4年5月
URL:https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinteki_shihon/pdf/report2.0.pdf
・経済産業省 「人的資本経営の実現に向けた検討会 報告書 ~人材版伊藤レポート2.0~ 実践事例集」令和4年5月
URL:https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinteki_shihon/pdf/report2.0_cases.pdf
・非財務情報可視化研究会「人的資本可視化指針」
URL:https://www.cas.go.jp/jp/houdou/pdf/20220830shiryou1.pdf
・日経新聞「人的資本開示、23年3月期から 大手4000社対象」2022年11月28日
URL:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB0937H0Z01C22A1000000/
・日経ビジネス「徹底予測2023」p40「企業の人的資本開示が義務に求められる対応は?」
・パーソナル研究所 「人的資本経営の実現に向けて 人材版伊藤レポートを概観する」2022年6月10日
URL:https://rc.persol-group.co.jp/thinktank/column/202206100002.html
・i-Learning 「VUCAとは何か。VUCA時代を生き抜く企業に必要なこと」
URL:https://www.i-learning.jp/topics/column/business/vuca-era.html
・EY Japan 「【有報サステナビリティ情報開示】人的資本の価値形成プロセスと人材版伊藤レポートにおける3つの視点&5つの要素」
URL:https://youtu.be/R2XZbj7xtZ8
・RELO総務人事タイムズ 「『人的資本の情報開示』を徹底解説!企業に求められる開示内容とは?」
URL:https://www.reloclub.jp/relotimes/article/20414
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